山家豊三郎と東一番丁
山家豊三郎は、山家清兵衛が仙台に残した長男喜兵衛の子孫にあたり、幼少のから祖父に外記流砲術を学び荻野流大砲術も修める武官でした。
仙台藩が幕府から蝦夷地警備を命じられた際、大砲頭として白老に駐留し現地の指揮にあたり、その後も重職を歴任し戊辰戦争では武頭として精兵を率いて参戦しました。
豊三郎が居住していた仙台城下の東一番丁は、数百石程度の中級武士たちが居住し、道の両側には土塀や杉の生垣で囲まれた武家屋敷が連なる閑静な町でした。この東一番丁と玉澤横丁が交差する一角(現在の一番町商店街と広瀬通の交差点北西角)に豊三郎の屋敷があったのです。
しかし、仙台藩が戊辰戦争で敗北したことにより町は一変します。武士たちは家禄を減らされ、さらに明治維新後の廃藩置県、秩禄処分といった大変革で職を失い、生活が困窮していきます。土地、屋敷、家財を売りに出すもの、路頭に迷い夜逃げするものまで現れ、閑静な町はさらに寂れていきました。
豊三郎も禄を失いましたが、武辺だけではない持ち前の明敏さで町の窮地を救う方法を模索します。何度も東京、京都、大阪に視察に出向き、研鑽を重ね、ついに東一番丁を商いの町へと再生させることが最良の策であるという結論を固めます。
明治2年(1869)、豊三郎は手始めとして、玉澤横丁に面した屋敷の一部に小店舗十数戸を建設し、商売希望者にこれを貸し出しました。もともと人通りの少ない寂しい武家屋敷町の一角であったため、初めは借り手がなかなかつきませんでした。そこで、豊三郎は、家来の近藤文吉に当時としては珍しい煙草刻みを習得させて煙草屋を開業させます。これが誘い水となり、商売希望者が集まりだしたので豊三郎は商売の方法を教えます。そして様々な商売を営むものが集まるようになると次第に人出も増えてゆき、玉滋横丁は「山家横丁」と呼ばれるようになりました。