昼だけではなく夜も賑わうようにと考えた豊三郎は、毎夜、灯火代と握り飯を与えるなどの特典を付けて夜の商いの出店を奨励、さらに賑わいづくりのために屋敷内の山家明神を一般に開放して盛んに祭りを催し、夜見世を出して人を集めました。これが仙台での夜見世の始まりとも言われています。この山家明神は、もともと祖先の山家清兵衛を祀った小祠でしたが、宇和島の和霊神社から分霊して一社を建てたものでした。
豊三郎のこうした努力により、山家横丁から東一番丁全体に拡がり様々な店が出現。明治5年(1872)には、芝居小屋、牛鍋屋、蕎麦・会席料理屋、汁粉屋などが次々と開店し、その後もペンキ屋、氷水屋、洋食屋などが開店。劇場、芸妓屋もでき、多くの勧工場も開設されました。
藩政時代の仙台では、国分町や大町が商業の中心地区として賑わっていましたが、新興の町である東一番丁は、地価も安く、古いしがらみも少ないため、新しい商売をしたい人が開店するには好適でした。
東一番丁は、またたくまに仙台有数の繁華街として、また仙台の新しい文化の中心地として発展していき、明治時代の末期には東北ーと言われるほどの繁栄を見せるようになりました。
東一番丁の再生に成功した豊三郎は、その才を見込まれ、各地で様々な活躍を見せます。明治5年(1872)、石巻港に開業した豪商戸塚貞輔を助けて財を成し、明治7年(1874)、仙台の公園造園の幹事となり、翌年、仙台最初の近代的公園である桜ヶ岡公園(現在の西公園)の創設に参画します。明治9年(1876)、宮城博覧会の会場や展示品の選定と臨幸する明治天皇の行在所の設営に関わり明治IO年(1877)開催の第1回内国勧業博覧会では、宮城県の出品取調係となるなどの才を現し、県も賞する著名人となりました。
山家明神は、明神の号を改めて和霊神社と称し、明治16年(1883)、山家家が屋敷を東一番丁から東二番丁と立町通り角附近に移転した時には、同敷地内に遷座されます。
晩年の豊三郎は、清水小路に居を移し、東京以北の名苑といわれる別邸「清奇園」をつくり、多くの文化人を招いて交友を深めるなど悠々自適の生活を送りました。この清奇園の跡地には、現在、仙台市福祉プラザが建っています。
明治29年(1896)11月5日、山家豊三郎は65歳で没すると荒町仏眼寺に葬られました。