清兵衛の暗殺と和霊神社
清兵衛暗殺は、秀宗による成敗(上意討ち)でした。事件を知った政宗は激怒、秀宗を勘当し、さらに幕府に宇和島藩の改易を願い出ました。後見役の桑折左衛門、秀宗の正室亀姫の兄である井伊直孝の幕府への嘆願と老中土井利勝、柳生宗矩などによる取り計らいで、宇和島藩は改易を免れ、後に政宗も勘当を解きました。
しかし、亀姫の三回忌法要の際に政敵であった桜田玄蕃が強風で崩れた寺院の下敷きになって圧死します。
以降、清兵衛の政敵だった者や暗殺に関与した者が次々と変死します。
秀宗も自らの病気だけでなく、長男、二男、六男を早くに亡くし、さらに藩内に凶事が続いたため、人々は清兵衛の怨霊による祟りではないかと恐れました。
この祟りを鎮めるために、秀宗は「児玉明神」という小さな祠を建立します。2代藩主宗利により「山頼和霊神社」として社殿が建立され、その後、代々の藩主の崇敬を得て、5代藩主村候により大規模な社殿が造営され、民衆に広く信仰されるようになりました。村候は、住民総参加の祭りを奨励し、7月23日・24日の和霊大祭は、令和の現在も盛んです。
和霊神社は、第二次世界大戦の空襲により全焼しましたが、戦前以上の荘厳な姿に再建されて現在に至っています。
宇和島の山家家は一時断絶しましたが、仙台5代藩主吉村に請い、仙台藩の山家正蔵頼次の三男平三郎を迎えて清兵衛の苗跡を継がせました。