宇和島と和霊騒動 -山家清兵衛事件-
慶長20年(1615)春、伊達秀宗主従が板島丸串城(宇和島城)に入場します。
当時の宇和島は、度重なる領主の交代や干ばつなどで疲弊していましたが、清兵衛は惣奉行として忠勤し、産業を興すなど領内に公平無私の善政を施したため、領民から敬慕されました。しかし、政宗から与えられた国造りの資金6万両をめぐって家臣の間で紛糾します。結局、清兵衛の提案により政宗の隠居料として知行のうち毎年3万石を献上することになりましたが、これが藩の経費削減と家臣の減俸によるものであったため、桜田玄蕃をはじめとする政敵を作ることになります。そして、幕府から大坂城の石垣修復工事を命じられた際、この政敵玄蕃により担当した清兵衛が不正を行ったと虚偽の報告をされます。
秀宗は、この告言を信じ、清兵衛に蟄居を命じますが、もともと6万両は返済の必要はないと考えており、浪費を諌められ、事あるごとに秀宗の行状を政宗に報告する清兵衛を疎ましく思っていました。
元和6年(1620)6月29日の雨の夜、刺客数名が清兵衛の館を襲撃しました。清兵衛は、寝所の蚊帳を切り落とされ、身動きできないまま刺し殺されます。享年42歳。二男、三男も惨殺され、四男は井戸に投げ込まれて殺されました。隣家の娘婿とその子二人までも惨殺され、清兵衛の母、妻、二人の娘も屋敷からは逃げ延びますが、土佐の地でついには命を落とします。清兵衛の妻が仙台まで落ち延び、山家喜兵衛の屋敷内に持ち帰った清兵衛の書簡を祀った小祠(のちの山家明神)を建てたという言い伝えもあります。
宇和島ではこの後、清兵衛を偲んで命日の夜には蚊帳を吊るさない風習が近年まで残っていました。