伊達秀宗と山家清兵衛
永禄7年(1564)、山形城主最上義守の娘義姫(保春院)が、米沢城主伊達輝宗のもとに輿入れをする際、山家公俊(河内とも)は義姫に随行し、そのまま伊達家にとどまり家臣となります。
和霊神社の祭神となる山家清兵衛は、この公俊の子です。
輝宗と義姫の長男として生まれた政宗は、家督を継ぎ、戦を重ねて領土を拡げますが、天下人豊臣秀吉の小田原征伐の参陣に遅れたことによる奥州仕置で減封され、居城を岩手沢(岩出山)に移します。この年、側室である新造 の方(飯坂局とも)に庶長子兵五郎が生まれます。幼少から豊臣家の人質として京・大坂に居住させますが、秀吉は自身の子である秀頼とともに可愛がり、元服の折には「秀宗」の名を賜ります。秀吉が亡くなり徳川家康の勢力が増すと、政宗も徳川方に与するようになり、居城を仙台に移し、仙台藩62万石の藩祖となります。この頃には正室愛姫にも虎菊丸(忠宗)が生まれています。 家康が天下人となると秀宗は人質として江戸に身を置きますが、この時の近習に山家清兵衛がいました。
慶長19年(1614)、秀宗は政宗に従い大坂冬の陣に参戦します。その戦功と忠義への恩賞として2代将軍徳川秀忠より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶように」と伊予宇和郡10万石を拝領します。仙台藩では二男忠宗が伊達家の家督を継ぐこととなっており、秀宗にとっては僻地への移封でした。
政宗は、宇和島藩主秀宗の補佐役(家老)として清兵衛に惣奉行を命じます。 他にも後見役に桑折左衛門、侍大将に桜田玄蕃などのほか、さらに五十七騎と呼ばれる家臣団と国造りの資金6万両を与えています。
清兵衛は宇和島に赴くにあたり、長男の喜兵衛に家督を継がせ、仙台に残しています。